コラム-No.14 漁業者の生活を豊かにするには (平成25年4月15日)
宮城県の村井嘉浩知事が、10日、宮城県漁協の反対を押し切って、漁業への民間企業参入を促す「水産業復興特区」の認定を復興庁に申請しました。漁業権は、地元漁協に優先的に与えられると漁業法で規定されていますが、復興特区法で、牡蠣や海苔などの養殖を営む「特定区画漁業権」は「地元漁業者の7割以上を含む法人」と「地元漁業者7人以上で構成される法人」にも、知事が漁協と同様に漁業権を与えることができるようになりました。
今回申請した特区の対象は、宮城県石巻市桃浦地区です。この地区の牡蠣養殖業者15人が「桃浦かき生産者合同会社」を設立し、仙台市の大手水産卸「仙台水産」が出資しています。牡蠣の養殖から加工、販売まで手掛けて、生産額を平成28年度までに従来の1・5倍の3億円にまで伸ばすと共に、40人の雇用増を目指しています。桃浦の業者は、震災前には生食のむき身の牡蠣だけを扱っていましたが、特区が認められれば、加工品などを開発したり、出荷時期を自由に調整したり、弾力的な事業運営ができるようになります。
これまでの養殖漁業は、漁協が生産物を集めて、共同販売(入札)を行っていました。生産者である漁業者は生産物を漁協に出荷して終わりでした。流通業者は、漁協が並べたものに値段をつけて購入しますが、当然できるだけ安い値をつけようとします。言い換えれば、漁協をはさんで生産者と流通業者・消費市場が分断されていました。消費者の求めているものを供給するのではありませんから、生産者の収入は増えません。生産者が品質の良いものをと努力しても、共同販売であれば評価はされず、努力に見合う対価も得られません。
儲かる漁業にするためには、消費者が求めているものを供給することです。今の日本の漁業は獲れるだけ獲って、一斉に魚市場に出すので、価格は下がります。しかも、資源を枯渇させてしまいます。漁業の先進的な国では、市場の需要を見ながら漁獲量や出荷量を調整しています。脂ののった消費者の好む大きさに育った魚だけを獲りますから資源保護にもつながります。
養殖漁業においても、農業と一緒で、生産するだけではなく、市場の動向を見ながら出荷量を決め、また加工したりして付加価値をつけることにより、利益を上げることができます。本来であれば、こうしたことを主導するのが漁協のはずですが、残念ながら漁業権の上に胡坐をかいている状態です。
県漁協は「特区導入は浜を分断し、混乱させ、復興の妨げになる。県は説明責任を果たしておらず、憤りを覚える」と述べています。しかし、この特区構想は震災後しばらくして出てきた構想であり、県は各地で説明会を開催しています。漁業が衰退を続けており、その責任は漁協にもあります。儲かる漁業へ転換するための具体策を示さず、反対のための反対をするのは無責任です。
既得権益を守ることしか頭にないような漁協に失望しています。おいしい水産物を国民に提供すれば、漁業者の生活も豊かにすることができますし、それが海の利用を独占的に許されている漁協の責任でしょう。特区に反対するのなら、それに代わる政策を示して、その責任を果たしてほしいものです。
海は自分たちのものと思っているようですが、国民の共有財産です。それを使わせてもらっているという感謝の心を持つべきでしょう。そうすれば限りある漁業資源の有効利用にも努力する一方で、獲れるだけ獲るという漁業からの脱皮をし、漁業者の生活が豊かになるように工夫するはずです。すでに、海外では多くの成功例があります。政府は速やかに特区を認めてほしいものです。
コラム-No.13 政府は実証的な歴史研究に着手せよ (平成25年3月22日)
安倍首相は、いわゆる『慰安婦問題』に関する新しい政府談話を、戦後70年の節目にあたる2015年に発表する事を目指す考えを、先ごろ発売された韓国誌「月刊朝鮮」のインタビューの中で語ったそうです。これに対して「事実上の見直し延期だ。断念だ」との批判がされています。安倍首相は政権発足当初から、慰安婦問題などの歴史認識を政治問題化しないと語っていますから、どうして「事実上の見直し断念だ」と批判されるのか私には理解できません。はっきりしていることは、歴史認識問題は困難な国際政治の問題だということです。
歴史は勝者の立場から作られ、勝者が正義を遂行し、敗者が悪者として語られ、流布されます。結果として、勝者の立場を正当化するために、多くの事実の歪曲が行われるのが人間世界の常です。近代史は欧米を中心として、とりわけ20世紀以降はアメリカを中心として物語が作られています。アメリカを正当化するために、語られない事実や歪められた事実が多くあります。
アメリカが行った原爆投下をはじめ、市民の殺戮を目的とした無差別爆撃などの戦争犯罪を正当化するためには、わが国が非人道的な残虐な国家でなければなりません。南京事件や慰安婦問題はその正当化を支える大事な柱です。南京事件は中国、慰安婦問題は韓国との2国間のみの問題ではなく、米国との問題でもあります。わが国がこの歪曲された事実を正すための行為は、東京裁判を否定し、アメリカの正当性を否定することになります。米国がわが国との同盟関係にあるとはいえ、これを受け入れるには、日米の戦争の生々しい傷が薄まるだけの時間の推移が必要でしょう。
世界は多極化が進んでいるといえども、アメリカは依然として覇者であり、アメリカ中心史観、とりわけ第二次世界大戦の勝者を貶めることになるような歴史の書き換えは現時点では容易ではないと思います。しかし、歪曲された歴史の是正を求めることは当然です。事実と反する歴史が語られることを放置し、国家、民族の名誉を棄損することを黙認するのは国家、国民の怠慢です。名誉回復のためにも、教訓を学ぶ意味でも、事実を検証する作業は国家の責任です。そのために政府の手で、自国の公文書や関係文書などの資料を収集、整理しなければなりません。
さらには、外国の資料も収集、整理することが必要であり、専門家に調査を委託することが必要です。収集整理した関係資料を、英語はもとより、中国語、韓国語などにも翻訳し、世界から自由にアクセスできるような環境整備も不可欠です。情報発信能力を高めることも、わが国の課題の一つですので、『近代史検証』を是非、速やかに政府主導で着手してほしいと思います。
コラム-No.12 武道を嫌いにするな (平成25年1月31日)
ロンドン五輪代表を含む女子柔道選手15人が、強化指導陣から暴力行為を受けたと告発された問題は、大阪市立桜宮高校の問題とも合わせ、わが国のスポーツ界に大きな転換を求めていると思います。体罰を全面的に否定するつもりはありませんが、あまりにも指導の仕方が拙劣な指導者が多いのも事実です。勝利至上主義にとらわれて、指導陣自らが指導力向上への真摯な努力、自己の人格練磨が欠落しているように感じます。
スポーツにおいて、と言うよりも何事にもおいても、技術、体力、精神力が必要です。それらの向上のために厳しい練習や訓練をします。技術や体力の鍛錬にはそれぞれの選手に合わせて、合理的な指導が求められます。技術のコツを掴むためには、合理的な説明で理解させ、繰り返し練習し、また弱い部分の筋力は重点的に鍛えることになるでしょう。
難しいのは精神力の鍛錬でしょう。精神力がすべての基礎になります。闘争心の強さが、100%以上の力を引き出すこともあります。その闘争心の源が怒りであることもあるでしょう。しかし、一方で冷静さを失えば、筋肉も硬直し、勝利から遠ざかることが多いのが現実です。
最後まであきらめない粘り強さなどの強靭な精神力はどうすれば得られるでしょうか。答えは一つではないと思います。個々人の性格が違うように、その指導方法も異なるはずです。「人を見て法を説け」という言葉の通りです。
「死ね」「代表から外すぞ」などの言葉や、胸や頭を小突いたり、竹刀で叩いたりすることで、技術や体力は鍛えられませんから、精神力の鍛錬になると思っているのでしょうか。それを受容する以外に選択肢がない時代には、一定の効果があったかもしれません。しかし、現在では、それが指導者の怒りに任せての言動や、指導力の未熟さから出たものであれば、逆効果です。
柔道界の日本代表チームの指導者が依然としてこうした指導を容認していることこそ、お家芸である柔道の衰退を象徴していると思います。ロンドン五輪での女子柔道は、金メダルが一つに終わりました。男子はゼロでした。その分析もないまま、女子の監督は続投が決まりました。ある意味では、相撲協会と同じように、指導方法や指導力の検討もなく、人間関係で指導陣が決まっているのではないかと危惧してしまいます。
それよりも懸念するのは、学校などでの柔道の指導者が、暴力や暴言をもって指導することを当然と考えていることです。幼年期から、柔道のみならず、剣道などの武道を好きで始めた子供たちが、嫌いになって止めると、根性がないなどとその子供の責任とされてきました。しかし、指導方法に問題はなかったのでしょうか。ピアノや英会話の指導で暴力や暴言を使う指導者はいないはずです。できない子供を、能力に応じて、できるようにしてやるのが指導者の能力です。学校教育においては特にそれが望まれます。それぞれのスポーツを経験し優秀な成績を残してきただけで、指導者になれる時代に終止符を打つべきです。指導者になるための知識の習得と指導方法の訓練が必要だと思います。今回の事件を、武道の素晴らしさをわが子孫に伝えていくとともに、世界に発信していくための好機に転換して欲しいものです。
コラム-No.11 競争なくして活力なし (平成25年1月9日)
安倍政権の経済政策であるアベノミックスへの期待が高まる一方で、朝日新聞をはじめとする、イデオロギー的に反安倍、嫌安倍派の連中がケチをつけ始めました。アベノミックスにリスクがあるのは当然です。リスクを冒さずに、大きな利益を得ることはできないのは、この世の摂理です。競争のないところに、活力はありません。不公平も格差も拡大するでしょう。
しかし、今のままで縮こまって、全国民貧窮化の道を歩むのをよしとするのでしょうか。それとも活力ある社会、若者が希望の持てる社会を取り戻すのかという二者択一です。選択肢は明らかでしょう。アベノミックスでやると政府が決めた以上、その政策に沿って国民が頑張る以外に豊かな社会は訪れません。もちろん様々な弊害や歪みをできるだけ小さくするように政策をチエックすることが必要です。それが朝日などメディアの仕事のはずです。
2%のインフレに成功すれば物価が上がりますが、給与はすぐに増えません。平均すれば2%というインフレは、庶民には日常生活の必需品はもっと上がったという実感に襲われるでしょう。「日銀がもっともっとお金をばらまけば、景気が良くなる」と主張している楽観的立場の森永卓郎・獨協大学教授だって、「三年くらいたてば、給与が上がるでしょう」と言っているくらいですから、しばらく辛抱するのはやむを得ません。
今日のTBSの「朝ズバッ!」で、みのもんた氏が、「インフレで物価が上がれば、仕入れ値が上がり、中小零細企業は苦しくなる。大企業が儲けて、納得いかないな」と批判的な発言をしていました。しかし、お金だって上から下へしか流れません。大企業が儲けて、中小零細への仕事が増えなければ、中小零細の懐が潤うことはありません。中小、零細が大企業と同時に、あるいは大企業より先に儲かるとは考えられません。原子力発電を廃止しろという司会者としてはふさわしくない発言もあり、引退をしてほしいものです。
活力とは競争です。競争のない社会は停滞や衰退があるのみです。競争に参加せず、マイペースで仕事をしたければ、それなりの収入しか得られません。人並み以上に努力せずして人並み以上の収入を得ることはできない、これが自然の法則であることを、戦後の日本人はどこかへ置いてきてしまったようです。
コラム-No.10 理解不能の朝日新聞の記事 (平成25年1月3日)
新しい年を迎える度に、憲法改正への歩みを確かなものとしてほしいと夢見てきました。今年こそ、この初夢が安倍政権の誕生で実現しそうです。それで慌てているのが朝日新聞でしょう。その表れが、1月3日の記事にも見てとれます。日本憲法の草案作りに直接携わった米国人ベアテ・シロタ・ゴードンさんが12月30日に死去されたのを5面の肩の記事で報じると共に、天声人語でも取り上げています。朝日が大きく取り上げた意図は「改憲の動きに警鐘」という見出しにしっかり表れています。
天声人語の書き出しは「『日本国憲法は押し付けられた』『いや、そうではない』と戦後68年の今も論議は続く。その憲法草案づくりに加わったベアテ・シロタ・ゴードンさんは、いつもこう語った。『日本の憲法はアメリカよりすばらしい』。そして憲法が日々の暮らしに根を張ることを願ってきた」となっています。
天声人語の記事の中には「押しつけ」か「否か」の直接の回答はなくて、5面の記事で触れられています。「彼女の存在自体が、『憲法は押し付けられた』という言説への反証だった。『草案者たちは、民主主義社会の実現を目指しながらも、日本の文化や懸念にも非常に敏感でした。日本側の発言によって、草案が変わった部分もあります』と指摘していた」としています。
「反証だった」ということは、朝日新聞は「押し付け憲法」を否定しているのは明らかでしょう。しかし、彼女の「日本側の発言によって、草案が変わった部分もあります」との指摘は、言い換えれば「日本側の発言にもかかわらず、草案が変わらなかった部分もある」ということです。普通の日本語の解釈では、「一部は日本側の主張が受け入れられましたよ」と彼女は言っているだけです。何故、「彼女の存在自体が」押し付けでないことを証明しているのかが理解できません。彼女が自己の理想を盛り込んだことを語っているのですから、むしろ彼女の存在自体が押し付けであることの証拠だと思うのが普通の解釈ではないでしょうか。
「押し付け」の反対は「自主」だと思うのですが、朝日新聞は日本国憲法を「自主憲法」だと考えているのでしょうか。草案段階から政府レベルで議論し、国会で制定したのであれば、自主憲法でしょうが、政府の草案を否定され、占領軍司令部の草案を示された段階で、とても自主憲法とは言えないでしょう。
その象徴が憲法9条です。1項、2項とも、日本側の主張で文章が加えられて変更されたことはよく知られています。しかし、「軍隊を保持することを許さない」という占領軍司令部の基本方針は議論の余地はありませんでした。その結果、憲法9条2項の後段は「国の交戦権は、これを認めない」となっています。ところが、交戦権という言葉は、占領軍司令部で憲法を起草したチャールズ・ケイディス氏も指摘しているように、意味不明です。わが国の憲法学会でも未だに解釈は分かれています。押し付け憲法のなせる業です。
憲法改正への大きなうねりを阻止したい朝日の焦りが、こうした理解不能な記事になったのだと思います。
コラム-No.9 中日新聞の宣戦布告!? (平成24年12月27日)
人品の尊卑は、その人の言動を見れば分かると言います。とりわけ、嫌いな人を批判する言葉に現れやすいので気を付けたいものです。12月27日付けの中日新聞には、その品位を疑わせる言葉が躍(おど)っている記事が掲載されています。「安倍内閣を名付けるなら」との見出しで列挙しているのが、「まぐれ敗者復活」「極右はしゃぎすぎ」「国防軍オタク」「厚化粧」「逆戻り」などと、世間一般では「罵詈雑言」の部類に入る表現です。
公の場で人を評する時に、本人に面と向かって言えない言葉は、本人がいない場でも言うべきではないと教えられました。中日新聞の総理担当記者は、この記事を堂々と安倍総理本人に見せることができるのでしょうか。それとも中日新聞社の編集長は、政治家はどんな言葉で批判されても甘受すべきだと思っているのでしょうか。
中日新聞が安倍総理を嫌いなのは一目瞭然です。これほどあからさまなのも珍しいくらいです。一般紙とスポーツ紙を比べれば、少なくとも一般紙の方が、使用する言葉や表現において、品位が保たれています。しかし、この記事は感情が露骨に表れています。批判するにも、礼儀があり、作法があるはずですが、何らの抑制もありません。
総選挙で国民から政治を付託された衆議院議員の多数が選んだ、就任したばかりの総理大臣に対して、何らの敬意も節度もありません。これは自民党に投票した人ばかりではなく、国民に対する侮蔑です。ということは、中日新聞は天に唾しているに等しいと思います。
わが国の政治報道は政策の是非や調査報道ではなく、誰と誰がどこで会ったとか、誰が誰を批判したとか、いわゆる政局報道が主体で、欧米と比べても水準が低いと言われます。今回の中日新聞の記事は、記事の質ばかりか、新聞社の品位まで下げてしまいました。もちろん、これは日本人全体の品位の劣化を示しているのでしょうから、他人事とは思わず自ら心すべきことと自戒しています。
一方で、この記事は中日新聞が行った安倍内閣に対する宣戦布告と読むべきなのかもしれないなと思っています。
輿石幹事長は、山梨県の日教組のドンと言われている。日教組はかつての共産主義のソ連や中国を支持。なかには北朝鮮から勲章をもらった元委員長もいるが、戦後一貫してデモやストライキなどの反政府、反米運動を展開し、輿石は筋金入りの闘士だろう。自分たちの主張のためには国民にどのような迷惑をかけようとも意に介しない思想の持ち主とも言える。それが政権与党の幹事長なのだから、国会がストップしようと、自治体が困ろうと、国民が大きな損害を被ろうとも平気だ。
もちろん、特例公債法案の成立を困難に追い込むことを十分知りながら、参議院で野田首相の問責決議を成立させた自民党も、責任は大きい。しかし、ただ批判するだけでは政治は動かない。大事なことは、現状のお粗末だと思う政治が、実は民主主義と言われるもの持つ本質だと認識する必要がある。
コラム-No.2 現代人は「賢明」だろうか? (平成24年10月10日)
積極的で楽天的な人と疑り深くて悲観的な人では、同じ事象やデーターを見ても、結論は全く異なるだろう。自分の思考傾向を自覚していれば、修正もできるが、現代人は自分が「賢明」であると思っている人が多いようで、自分の思考能力を疑ってみる人が少ないようだ。端的なのが、原子力発電を2030年代にゼロにしようとデモなどに参加している人々だ。
再生可能エネルギーで、原子力発電に代替できるとの考えは、明らかに希望的観測だ。再生可能エネルギーで原電の代替ができるのであれば、それは本当に素晴らしいことだ。しかし、今の技術では30%前後も安定的な供給をすることは不可能で、不足分やバックアップ電源は化石燃料に頼らざるを得ない。20年後までに、何らかの技術的なブレークスル―(突破口)が見つかるとの希望に賭けて、自分たちの主張を正当化している。
もちろん、感情的に原子力を怖がり、原電を廃止したら、わが国のエネルギー事情がどうなるか、経済がどうなるかなど何も考えない人も少なくない。子供たちのために原子力はない方が良いと言っている母親は、わが国が貧困化して、その子供が成長した頃には大学を出ても就職できず、今の就職氷河期なんかとは比べ物にならない状況になっていることなど、想像もしないのであろう。
地震などに伴う原子力発電所の大事故による生命や健康が侵されるリスクよりも、化石燃料による大気汚染やわが国が貧困化して、犯罪の多発で犠牲者が増えるリスクの方が大きいというのが現状での科学的知見だ。
脳科学や心理学で、人は見たいものしか見ないというのは、よく知られている。これはある意味生理的なものだが、自分の知りたいことしか知ろうとしない人が圧倒的に増えてきたことは、深刻な問題だ。自分の賢明さを常に疑う賢明さを持ちたいものだ。
コラム-No.1 安倍新総裁に期待する (平成24年10月1日記)
安倍・自民党新総裁が誕生した。総選挙で政権を奪還し、総理として再登板し、「美しい国日本」を作るために「戦後レジウム(体制)」の清算を大いに期待したい。総理に就任した6年前とは取り巻く内外の状況はさらに厳しくなっているが、国内の政治状況も変わっている。前回、官僚との闘いは孤軍奮闘のようにも見えたが、今回は自民党内で支えてくれる味方も増えそうで、縦割りの弊害の大きな官僚依存からの脱却に指導力を発揮してもらいたい。
国防の強化、教育改革、経済再生、社会保障制度の改革など、大きな課題が山積している中でも、憲法改正は国のあり方、進むべき方向を明確にする上で、正面から取り組んでもらいたい最優先課題だ。次の総選挙で日本維新の会から新議員が誕生し、新勢力として登場するから、憲法改正を政治の表舞台に登場させてほしい。わが国の安全保障が、日米安保を基軸とすることは言うまでもないが、わが国の国体にふさわしい憲法を作り、真の独立国とならなければ、中国からも韓国からも侮られるだけだろう。
憲法改正が具体化していけば、国内を二分する論争が予想される。しかし、この論争こそ、わが国が戦後体制から脱却するためには避けて通れない道だ。あまりにも戦後の日本国民は、領土をはじめとして国家に関心を持ってこなかった。今、決められない政治に落ち込んでいるのは、国民が自己の利益にのみ関心を持ち、国家をサービス機関程度にしか考えなくなっているからだ。多くの国民が国家から利益を得ることしか考えなければ、国家の運営が行き詰まるのは当然だ。
家族や伝統文化を否定し、国家を軽視し、個人の権利を拡大し続けた戦後民主主義を方向転換しようとした安倍政権に対し、朝日を筆頭に戦後民主主義を擁護するメディアが政権叩きに血道を上げた。一方で、靖国神社参拝をしなかったことなどに対する保守からの批判が、政権の足元をすくう形にもなった。次の総選挙で、安倍政権が誕生した時に、保守を自称する人たちは、左翼を応援するような同じ愚を繰り返してほしくない。わが国では「小異を捨てて大同に就く」と言うが、本来の中国語の諺は「小異を残して大同に就く」だ。小異は棚上げしてでも、戦後体制の清算を行い、誇りある独立国家となることを急ぐべきである。